企画展示

江戸の千両箱展

 江戸初期の千両箱と言えば江戸の大泥棒 鼠小僧次郎吉を思い浮かべますね。「千両箱を小脇に抱え、屋根を飛び移る。」。そんなことが可能であったかどうかは判りませんが、おおよそ15㎏の千両箱を抱えての立ち回りは困難と観た方が良さそうです。江戸初期の千両と言えば今の貨幣価値で言えば約1億円。宝くじで庶民が夢に見る額です。ただし、江戸末期には5千万円程に下落していました。早速そんな江戸の夢「千両箱」を追ってみましょう。

「千両箱」

 その名の通り千両の貨幣を収納することを目的とした箱で、小判あるいは一分金の包塊(25両)が40個分収納可能でした。1854年頃からは二分金用の千両箱や大判が収納可能なタイプも使用されるようになっています。また、5千両箱や万両箱なども作られ使用されました。用材としてはヒノキや樫の木が用いられ、漆塗りで仕上げられ、角を鉄板などで補強しているものが多く見られました。南京錠によって施錠することができるタイプも存在しました。大きさも様々で、千両が収納できる一般的な千両箱の大きさは、縦40㎝、横14.5㎝、深さ12.3㎝。千両箱のイメージは黄金色の四角ばった長方形でしたが、実物は小ぶりで細長く、色も黒茶系で地味です。

大坂の豪商鴻池家で使われていた千両箱(大阪歴史博物館)

「1,700年頃の 元禄小判▲」                     

 表面には鏨(たがね)によるゴザ目が刻まれ、上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の左端に小判師の験極印、吹所の験極印さらに花押の左に「元」字が打印されている。

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館に展示される万両箱(所在地:名古屋市東区赤塚町25)

「万両箱▲」

 三菱東京UFJ銀行貨幣資料館(名古屋市)に展示されている万両箱は、まさに天下一品で、一万両の大金を保管する金庫であり、この万両箱は江戸時代から明治維新まで、京都二条城のご金蔵に格納されていたものと伝えられています。見るからに頑丈につくられ、外側は鉄帯でからめ内部は一面に厚い南蛮鉄が厳重に張られています。重量は約150kgもある重厚な箱です。

「江戸時代の貨幣」

 徳川幕府は、貨幣発行権の独占と貨幣の様式の統一を図り、金・銀・銭(銅)の三種の貨幣からなる「三貨制度(さんかせいど)」を制定しました。しかし、幕府の制定した貨幣制度は、それまで各地に流通していたさまざまな貨幣の形態をほとんどそのまま使用したものでした。金貨は、小判一枚の一両を基準とし、一両は四分、一分は四朱の四進法の単位で表す「計数貨幣」でした。銀貨は、重さがそのまま貨幣としての価値となる「秤量貨幣」で、基本単位は「匁」、一匁は一〇分、千匁は一貫でした。銭は一個が「一文」で千文が一貫文というように金・銀・銭(銅)がそれぞれ別個の体系をもち、単位の名称も異なっていました。そして、これらの交換は、相場によって行われていました。金貨と銀貨と銭貨金貨一両あたりの相場は時代により異なり、元禄年間(一七〇〇年頃)では、銀貨六〇匁、銭貨では四千文でした。

「質量の単位としての両は、」

 古代中国で生まれました。漢代の『漢書律歴志』に「権者銖・両・斤・鈞・石也。所以称物平施知軽重也。本起於黄鍾之重。一龠容千二百黍重十二銖。両之為両。」と記述があります。「両」の漢字には「二つ」という意味があります。この両は三銭八分程度(銭は日本の匁と同じ)です。質量の単位としての両は、匁の倍量(貫、斤の分量)単位で、日本の五円硬貨の質量は3.75gで、ちょうど1匁に相当します。大宝律令では隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41g~42gくらいでしたが、唐代になり11%程度減少し37.3gとなり、日本国内でもこれに近い値となった.

「通貨単位としての両は、」

  武田信玄により、鋳造を命じられた甲州金により確立され、江戸幕府に継承されたもので、一両は四分に等しく、また十六朱と同じです。小判一枚の貨幣価値に相当し、したがって二分金二枚に、一分金、一分銀四枚に相当し、また二朱金、二朱銀八枚に、一朱金、一朱銀十六枚に相当します。明治時代に通貨単位として圓(円)が導入されましたが、切り替え時に「一圓は一両と等価」とされ、しばらくの間は「圓」のことを「両」とも呼んでいました。また江戸時代にも文政年間頃から「両」のことを俗称として「圓」と呼ぶ習慣が一部にあったと言われています。

「銭箱」

 商家で用いた日常の銭入れ箱を言います。上部には、丸い穴や漏斗状のお金の落とし口を付け、一度入れたら手で出せないようにして、出すときは下の錠付きの引出を開けて使用しました。用材はやはりケヤキや樫の木などの堅い木を用いましたが、朴や桐などを用いた物もありました。

「鼠小僧次郎吉」

 鼠小僧は、江戸後期(寛政九年~天保三年)大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、本職は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られます。博奕で身を崩し、盗人稼業に手を染め、武家屋敷に忍ぶこと九十九カ所百二十二回に及んだが、天保三年上野国小幡藩屋敷に入ったところを捕まり、市中引き回しの後処刑されました。鼠小僧は「貧しい者に盗んだ金品を分け与える義賊」との伝説がありますが、研究家の調べによるとそのような史実はなく、慎ましやかな生活態度からそのような説が流れたかもしれないとのことです。

「中山道の各務野の鼠小僧の碑」

 思いかけず、身近なところにねずみ小僧伝説が生きていました。「昔々、中山道の各務野(鵜沼宿と加納宿間)は見渡すかぎり草原で寂しい場所でした。あるとき旅の若い娘が各務野で日没で困っていると一軒の灯りが。娘はその家に泊めてもらいますが、実はそこは旅人から金品を奪う悪人の家、たまたま六十六部の修行者が泊まっていて悪人を懲らしめたので娘は無事に旅を続けられました。六十六部とは日本全国六十六か国を巡礼する法華経を広める宗教者で、江戸時代が最も盛んでした。娘を助けた六十六部は実は義賊の鼠小僧次郎吉の仮の姿で、江戸で処刑されたという話が各務原に伝わると、鼠小僧次郎吉の各務原での行いを後世に伝えるために石碑が建てられたそうです。石碑は、岐大跡地の市民公園の高山線と名鉄の間にある神明神社の中にあります。(木曽川学歴史ガイドブックより)

各務原市のねずみ小僧次郎吉の碑