船頭屋敷

江戸時代、木曽川をはさんで対岸の交通は、渡船に頼っていました。太田宿には、慶長十五年(一六一〇)に大久保長安から出された「太田渡船頭屋敷安堵状」により船頭八人の屋敷が保証されていました。渡船に関わる人々が住んでいたことがわかります。

 当時、木曽川は太田川とも言われ、大田南畝は『壬戌紀行』の中で「太田川を渡るには一町ばかり川上より船にのるに、流れ急にして、目くるばかりなり」と語っています。木曽川の荒瀬を渡す船頭たちは、中山道を旅する人々や宿場周辺に住む人々の生活を支えていたのです。