皇女 和宮(かずのみや)

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、弘化三年(1846年)に仁孝(にんこう)天皇の第八皇女として生まれた。十五人兄弟の末っ子で、成人したのは兄の孝明(こうめい)天皇(明治天皇の父)と姉の敏宮(ときのみや)の三人だけです。
  6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)と婚約したが、和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して「十四代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」(公武合体)と執拗な申し出があり、婚約を解消し承諾するに至った。和宮16歳の時、文久元年(1861年)10月20日に中山道を江戸に下った。

 

写真は例年大好評!「おん祭みのかも」大名行列の1シーン

 

中山道にしたのは、いくつかの説がありますが、この縁組の反対派が、和宮奪回を企てていることから、より危険性の少ない中山道にされた。御輿入れの行列(50km)は、世界でも比類の無いことで、総費用は今のお金にして約150億円かかったといわれています。
太田宿は、27日に宿泊されました。太田宿での備品等は下記の通りです。

人馬7,856人 280匹 布団7,440枚 枕1,380個 飯椀8,060人前 汁椀5,210人前 膳1,040人前 皿2,110人前 通い盆535枚

11月15日に江戸到着、翌文久2年(1862年)2月11日、江戸城内で婚儀。時に家茂、和宮共に16歳でした。

 

幕末での悲運な女性である和宮

1.丙午(ひのえうま)年生まれ

弘化3年(1846年)5月10日、仁孝天皇の側室の子として生まれた。 1846年は、丙午(ひのえうま)年で、その後は1906年、1966年。丙午の女性が嫁ぐと、嫁いだ家は、男性が早く亡くなり、家が絶えると言われていた。あくまでも迷信ですが。

2.親の顔を見ていない。

和宮が生まれた時(側室の子)は、父の仁孝天皇はこの世になく、出生する三ヶ月前の1月26日に風邪がもとで病死された。(御歳47歳)

3.婚約解消された。

6歳の時、有栖川宮家の長男熾仁(たるひと)親王と婚約、以来学問を有栖川家で学んだ。15歳の時、幕府の幕権強化のため、婚約解消され、家茂に嫁ぐ。 もし、有栖川宮に嫁いだなら、東征軍の大総督で、後に陸軍大将の夫人で終わったのに。東京都麻布に有栖川公園には、馬にまたがった熾仁親王の銅像がありま す。

4.嫁姑

姑は、今年のNHK大河ドラマ「篤姫」(天璋院)で、十三代将軍家定の継室。和宮が幕末の皇室出身者のプリンセスなら、篤姫は、幕末の武家出身者のシンデレアでファーストレディーです。

5.夫君将軍徳川家茂の早死。

公武合体策は実らず、討幕運動は激しさを増した。家茂は、二度に渡る長州征伐のため大阪に赴くが、脚気のため慶応2年(1866年)7月20日、20年の短い生涯を大阪城で終えた。

6.短い人生

明治10年(1877年)に、箱根にて脚気により32年という短い生涯を終えた。薨去(こうきょ)。

7.替え玉説

亡くなってから100年後の昭和52年(1977年)1月から翌年3月まで、作家有吉佐和子の和宮替え玉説を主題とした作品「和宮様御留」が『群像』誌上 に連載され、単行本として発行されるとそのショッキングな内容でベストセラーズとなった。明治維新に身を犠牲にして大きな役割を演じた皇女をたとい歴史小 説であっても偽者呼ばわりされたのはかわいそうです。