このページではJavaScriptを使用しています。

企画展示案内

中山道、太田宿に関連した企画展示を期間限定でおこなっています。江戸時代を中心に中山道にまつわる貴重な展示物を無料でご観覧頂けます。

江戸のあかり・行灯展

更新日:2016年12月15日

DSC07528.JPGのサムネール画像  

  行灯(あんどん)

  江戸時代の行灯は大きく ””型 と ””型 と大別されます。

  有明行灯   有明の月がでるまで使う意味でこの名前がついた。

  遠州行灯   小堀遠州(近江の大名で茶人)が考案したといわれる。

  今回の展示では、そのほか灯の調整ができる行灯など11点を展示しています。

  ぜひ、ご来館ください。

  展示期間:平成28年11月~平成29年3月31日

 

 

 

7/8~11/30  江戸の捕り物道具展Ⅱ

更新日:2016年07月08日

 平成25年度に続き2回目の捕り物道具展です。おなじみの、突き棒、刺す股、袖搦(そでがらみ)の種類が増えました。今回展示しているのは各種の突き棒、刺す股、袖搦の他、十手、龕灯(がんどう)等を展示しています。

 20160708122427_00001.jpg

 

 

【江戸幕末のかわら版展】開催!

更新日:2016年01月16日

太田宿中山道会館展示室では、数奇な運命・皇女和宮を取り巻く 【江戸幕末のかわら版展】を開催しております。

  展示期間  平成28年5月8日まで  午前9時 ~ 午後4時30分

  展示場所  太田宿中山道会館内  展示室

20160116154453_00001.jpgのサムネール画像

 

 

 

20160116154453_00002.jpg

  

 

江戸の花見弁当展 ~平成27年9月30日まで開催!

更新日:2015年07月30日

  20150730170138_00001.jpg

 

江戸むらさき名所源氏御殿山花見 

見立花の宴

手前にお酒付の銅壺、右奥に三段重ねの重箱が見える。

 

 

 

 

日本の弁当と弁当箱の歴史

 

             木の葉

         の効用

 

 

ご飯やお餅などを笹、カシワ、アシ、カシなどの葉で包むのは、葉に含まれるフィトンチドの殺菌効果を利用したものです。特に笹の葉に包まれる竹の皮や笹の葉にはサルチル酸が含まれ、この物質はことに殺菌力が強く、コレラ菌まで殺すそうです。

 

 

 

 

 

木の葉の効用

自然豊かな日本では、柏、ホウ、熊笹などの比較的大きな木の葉や筍皮が食器代わりに用いられ、木を加工した食容器が作られてきました。しかし、大工道具が発達した室町時代に木材を加工する技術が著しく向上し、食容器づくりにも影響を与えました。
べんとうという名称が生まれたのは安土桃山時代と考えられています。  これは弁当容器と弁当の両方をさす言葉でしたが、江戸時代における昼食の習慣化に伴って、庶民の間でも弁当が普及し、弁当と弁当箱が明確に区別されるようになりました。また、場面と用途に応じた多種多様な弁当箱提重・陣中見舞用弁当箱

 

 

・腰弁当・道中弁当などが作られました。

 

 ちなみに、日本で食べられてきたジャポニカ種の米は炊くと水分を多く含むため、柔らかく仕上がり、冷めてもおいしいのが特徴ですが、この特徴を最大限に引き出す炊飯法は江戸時代に登場しました。

 淡白なご飯は出汁や醤油、味噌などうま味を多く含んだ調味料で味付けした副菜や漬け物などとも相性が良く、「冷えたご飯とおかずを食べる」という独自の食文化が形成されました。

 

 

 

■花見弁当

桜の花を見て歌を詠み、風流を楽しむことは平安時代からありましたが、庶民に拡がったのは八代将軍吉宗が庶民の行楽のため、上野、飛鳥山、品川御殿山、隅田川堤、小金井堤に桜を植えてからと言われています。

江戸時代の料理本「料理早指南」(一八〇一年)には、豪華な花見弁の献立見本が掲載されています。

 

   

 

   一の重 かすてら玉子、わたかまぼこ、若鮎色付焼き、むつの子、竹の子旨煮、早わらび、打ち銀杏、長ひじき、春がすみ

   二の重 蒸かれい、桜鯛、干大根、甘露梅

   三の重 ひらめ と さより刺身に、しらがうどとワカメを添え、酢みそを敷く

   四の重 小倉野きんとん、紅梅餅、椿餅、薄皮餅、かるかん、割籠わ

       りご) 焼飯(焼きむすび)、よなめ、つくし、かや小口の

       浸物 

 

   ※「わたかまぼこ」は、アワビの青わたを入れて作ったかまぼこ

 

    ※「割籠」は、中に仕切りのある木製弁当箱

 

                    出典 松下幸子千葉大名誉教授 

  

 

 というような豪華な弁当であるが、落語では「酒は番茶、かまぼこは大根の漬物、玉子焼きはたくあん」で代用する小話があり、庶民なりの楽しみ方をしていました。因みに、江戸時代は炊きたてのお米を「ご飯」、ご飯が冷えたものを「飯(めし)」と使いわけていました。

 

 

 

器~その素材と形、機能の美しさ~

 

 

弁当箱となる重箱の美しさは、その素材や形、そして機能的な美しさにかれます。

木の香りや殺菌性等の特質を生かした素材、体の曲線に合った形状、おやお酒もセットされた重箱。漆塗りや蒔絵を施した豪華な重箱。いずれにしてもろいろな知恵と創意工夫が凝らされた花見弁当箱を見ると、花見弁当箱が単なるごしらえだけの器ではなく、着飾って花見という社交場へ向かう人々の「脚光をびるための重要な小道具」に見えます。

 

 

 

 DSCN2330.JPG

 

 

 

 

江戸の花見弁当箱展

 

 

12/10~3/31 江戸のあかり展Ⅱ 

更新日:2014年12月27日

 火は熱と光をだす。あかりには暖かさと明るさがある。原始時代の真っ暗な夜、人々は暖かい火に集まり暖を取り明かりをとった。江戸の人々はどのようにして「あかり」を作って来たか?江戸の人々の工夫の歴史をみてみよう。DSC06377.JPG

火は熱と光をだす。火には暖かさと明るさがある。原始時代の真っ暗な夜、人々は暖かい火に集まり、暖を取り、明かりをとった。江戸の人々はどのようにして「あかり」を作って来たか?江戸の人々の工夫の歴史をみてみよう。

■たき火のあかり

「万葉集」に鵜飼いのかがり火が詠まれている歌があり、「あかり」として使われていた。薪は樹脂の多い松の木、特にその根が一番明るくかつ長時間燃え続けることを経験的に発見し、それを束ねて「松明(たいまつ)」として持ち歩き用の「あかり」として使った。

■油のあかり 

野外の「火」が、屋内の「あかり」としたのは油だった。油は植物と動物で、漁村では魚油であった。動物油や魚油は臭いが強いため、ハシバミ、ごま、エゴマ、ホソキなどの油が使われたが、江戸初期から菜種油が使われ、菜種の生産が盛んになった。菜種油の安定生産供給は、「あかり器具」にも大きな変化をもたらし、あんどんやひょうそく、灯台などあらゆる照明器具が考案された。しかし乍ら、菜種油は高くイワシなど安い魚の脂の倍以上もしたので、庶民は魚油を使わざるを得なかった。

●ひょうそく

「灯芯(イグサの芯)をお椀や壺の縁にたらし、油を吸い上げた灯芯に火をつけあかりとした。その後、器が工夫され、器の中央に芯をだし、油汚れや油の無駄をなくした。形は様々で急須や茶器と見間違うものもあり、呼称も灯明皿、灯台、タンコロと多様でした。

●行灯(あんどん)

ひょうそくを木や鉄の枠に和紙で囲い、その中に灯明皿を置いたもの。形も多様でおしゃれなものが多い。関東では「角」型。関西では「丸」型が多いといわれる。平仄とちがって和紙の部分に布などを覆い、必要に応じて明るさを調整したり、レンズを付けたりする行灯などもある。

■蝋燭(ローソク)のあかり

  蝋燭(ろーそく)は、奈良時代に仏教の伝来とともに中国からもたらされた「蜜蝋燭」(蜜蜂の巣から採ったロウを)があったが、高価であったため普及しなかった。漆(ウルシ)や櫨(ハゼ)の実を潰して搾った木蝋(モクロウ)を使った和蝋燭は、1375年の太平記にその記述があるが、和蝋燭が普及したのは江戸時代に各藩が経済振興策として漆や櫨を栽培して蝋燭が普及していった。蝋燭は、持ち運び可能のため、燭台、提灯、がんどう、ぼんぼりなどの新しい照明器具を生んだ。

  ●燭台

  ろうそくを立てるための細い棒の付いた灯火具。高さ、大きさなど形態は多様で用途別にあらゆるものがつくられた。仏具,神具などにも使われ、そのほか手燭、旅行用の折り畳み式携帯燭台、壁掛け用燭台、伸縮燭台もある。

  ●提灯

  竹ひごをらせん状に回し骨として周りに和紙を張り、中にローソクを立てて使った。その後、上下のふたを箱状にし、骨組みを蛇腹状にして折り畳むと箱に収納できる箱提灯ができ、それをさらに小型化し丸型にしたのが小田原提灯で、小田原宿で考案されお土産として販売したという。

江戸のあかりと明るさ

 燭台や行灯でどのくらいあかるさになっただろうか?『大江戸生活体験事情』のなかで、行灯の明るさについて、照度計を用いて測定している。これによると、行灯の明るさはおよそ二〇ルックスで、六〇ワット電球(千ルックス)の五〇分の一程度である。行灯に本を近づけて、大きな文字がようやく読める程度だったらしい。ローソクは高価で一本二百文。今で四千円位したというから、庶民は早寝早起きするしかなかったでしょうね。

20141227143932_00001.jpg

 

 

江戸の千両箱展開催中!

更新日:2014年07月15日

DSC05353.JPG企画展示 「江戸の千両箱展」

 

千両箱には夢がある。「一生に一度はお目にかかりたいものだ」と江戸の庶民は思ったことでしょう。一度、その手応えを味わってみませんか。

展示期間   平成26年 6月17日(火) ~ 11月3日(月)まで

展示場所   太田宿中山道会館 展示室

 

対   象   どなたでも

入 場 料    無  料

問い合わせ  太田宿中山道会館   0574-23-2200

 

千両箱と言えば江戸の大泥棒 鼠小僧次郎吉を思い浮かべる。「千両箱を小脇に抱え、屋根を飛び移る。」。そんなことが可能であったかどうかは判らないが、おおよそ15㎏の千両箱を抱えての立ち回りは困難と観た方が良さそうだ。江戸初期の千両と言えば今の貨幣価値で言えば約1億円。宝くじで庶民が夢に見る額だ。ただし、幕末頃には5千万円程に下落していましたが、江戸の夢「千両箱」を追ってみよう。

 

千両箱

 

その名の通り千両の貨幣を収納することを目的とした箱で、小判あるいは一分金の包塊(25両)が40個分収納可能でした。1854年頃からは二分金用の千両箱や大判が収納可能なタイプも使用されるようになっている。また、5千両箱や万両箱なども作られ、使用されました。用材としてはヒノキの木が用いられ、漆塗りで仕上げられ、角を鉄板などで補強しているものが多く見られました。南京錠によって施錠することができるタイプも存在しました。大きさも様々で、千両が収納できる一般的な千両箱の大きさは、縦40㎝、横14.5㎝、深さ12.3㎝。千両箱のイメージは黄金色の四角ばった長方形であったが、実物は小ぶりで細長く、色も黒茶系で地味である。

 

 

万両箱

 

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館(名古屋市)に展示されている万両箱は、まさに天下一品で、一万両の大金を保管する金庫であり、この万両箱は江戸時代から明治維新まで、京都二条城のご金蔵に格納されていたものと伝えられています。見るからに頑丈につくられ、外側は鉄帯でからめ内部は一面に厚い南蛮鉄が厳重に張られています。重量は約150kgもある重厚な箱です。

 

 

銭 箱

 

商家で用いた日常の銭入れ箱。上部には、丸い穴や漏斗状のお金の落とし口を付け、一度入れたら手で出せないようにして、出すときは下の錠付きの引出を開けて使用した。用材はやはりケヤキや樫の木などの堅い木を用いたが、朴や桐などの用いた物もありました。

 

 

鼠小僧次郎吉

 鼠小僧は、江戸後期(寛政九年~天保三年)大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯で、本職は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られます。博奕で身を崩し、盗人稼業に手を染め、武家屋敷に忍ぶこと九十九カ所百二十二回に及んだが、天保三年上野国小幡藩屋敷に入ったところを捕まり、市中引き回しの後処刑されました。

 

鼠小僧は「貧しい者に盗んだ金品を分け与える義賊」との伝説があるが、研究家の調べによるとそのような史実はなく、慎ましやかな生活態度からそのような説が流れたかもしれないとのことです。

 

中山道の各務野の鼠小僧の碑

思いかけず、身近なところにねずみ小僧伝説が生きていた。

「昔々、中山道の各務野(鵜沼宿と加納宿間)は見渡すかぎり草原で寂しい場所でした。あるとき旅の若い娘が各務野で日没で困っていると一軒の灯りが、娘はその家に泊めてもらいますが、実はそこは旅人から金品を奪う悪人の家、たまたま六十六部の修行者が泊まっていて悪人を懲らしめたので娘は無事に旅を続けられました。六十六部とは日本全国六六か国を巡礼する法華経を広める宗教者で、江戸時代が最も盛んでした。娘を助けた六十六部は実は義賊のねずみ小僧次郎吉の仮の姿で、江戸で処刑されたという話が各務原に伝わると、ねずみ小僧次郎吉の各務原での行いを後世に伝えるために石碑が建てられたそうです。

石碑は、岐大跡地の市民公園の高山線と名鉄の間にある神明神社の中にあります。(木曽川学歴史ガイドブックより)

 

 

 

江戸の千両箱展

 

1/25~5/25 【江戸の捕り物道具展】開催中!

更新日:2014年01月30日

 

展示期間 平成26年1月25日~5月25日         展示場所 太田宿中山道会館 展示室

 

江戸の捕り物道具展

 

 

 

 

現代は警察制度による治安体制が整っているが、江戸時代の治安体制はどんなだっただろう?江戸幕府で江戸の町の治安警備にあったのは老中の支配下の町奉行でした。今で言うと「警視庁」のようなものですが、町奉行は現在の警察と裁判所を兼ねた機関で、更には消防署の役割も果たすなど、実際にはもっと幅広い行政の役割ももっていました。町奉行は、幕府だけでなく諸国の各藩でも町奉行を設置していました。

 

江戸の町と人口

  江戸末期の人口は町人だけで六〇万人。当時は町人のみの統計で、武家屋敷や寺社、芸人等は統計されていませんでしたので、合わせると一〇〇万人を超えていたと言われます。又、面積は美濃加茂市の面積より少し大きい八〇平方キロと言われておりますが、町人地は僅か十八%で、残りは町奉行の権限の及ばない武家地と寺社地でした。そこに江戸八百八町がひしめいていました。

 

 

北町奉行・南町奉行

北町奉行、南町奉行と言われるように江戸町奉行は二カ所あり、月番で交代して任務に当たっていました。月番でない奉行所は、月番の時の案件などの事後処理、裁判事務の処理をして忙しく働いていました。

 奉行は、午前中は江戸城に登り老中と打合せや報告をして、午後は奉行所で決済や裁判を行いました。奉行の下に与力、同心が配備されていました。奉行所の実働部隊は、与力や同心で、これらは将軍家の家臣で世襲で勤めていました。南北両奉行には、それぞれ二五騎の与力(与力は馬上が許されたため馬も込みで単位は「騎」)と、一〇〇人の同心が配備されました。与力はそれぞれ四~五人の同心を部下として捜査、治安維持にあたりました。

 

与力

与力は、現在の警察署長級ですが、民事・刑事裁判担当の司法官でもあり、また行政官として同心を指揮・監督するなど多忙であったようです。与力は役宅として八丁堀に三千程度の屋敷が与えられ、大名や町家などからの付け届けも多く、裕福でした。粋な身なりで人気があり与力・力士火消の頭を「江戸の三男」と称しました

 

同心

同心も着流し姿や巻羽織などな身なりで人気がありましたが、一方、罪人を扱う汚れ仕事であったため不浄役人と蔑まれることもありました。時代劇では十手を腰に差していますが、史実では懐に隠し持っていました。これは捕具であると同時に身分を証明するものであったため、スリなどによる盗難に用心し、また張り込みや尾行では身分を隠す必要もあったからです。

 

岡っ引、手先、下っ引

    人口60万人の江戸の町を100人の同心だけで取り締まるのは困難で、同心の私的な部下を町人から雇い、実際に犯罪捜査や犯人逮捕に携わったのが岡っ引(目明かし、御用聞きとも言う。)でした。岡っ引は同心から僅かなお金を貰うだけで生活ができず、捜査上の権限を悪用して、町人からマムシのように嫌われたとも言われています。この岡っ引の部下として手先、下っ引がおり、聞き込み捜査や下調べを行いますが、他に職がないと食べて行けないので、捕り物には出なかったそうです。

 

捕り物道具

 

大捕り物となると、奉行が与力に命じ、配下の同心を連れて行きます。捕り物に必ず現れるのが三道具(みつどうぐ)。三道具とは、刺股(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)の三種類の捕り物用の道具(捕具)の総称です。三道具は、江戸時代などにおいて犯罪容疑者を捕獲するための道具で、これらは、非致死性の武器ですが、被捕縛者が負傷する場合もある荒っぽいもので、対象者が苦痛で抵抗する気力を失ったところで捕らえる道具でした。柄の部分には、先端部周辺は金属の板が補強に用いられ、などで払われても破損することがないようになっていたほか、ここを握り締めて抵抗したり逆に奪われないよう、鋭い刺が生えていました。これで対象者を押さえつけたり叩いたりします。これを受ける側は抵抗するほどに細かい擦り傷や引っかき傷を負うことになり、その視覚的な「痛そうな雰囲気」もあって対象を威圧する効果がありました。使用時には、複数の捕方(逮捕するための人員)が各々これらの道具を手に持って、よってたかって突いたり引き倒したり押さえ付けたりして捕縛しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20140130134021_00001.jpg

 

9/25~12/25 企画展示「江戸・明治の高札展」

更新日:2013年10月11日

 

 

 時代劇で町の中の一角に大勢の町人、浪人、僧侶、虚無僧、旅姿の人々が屯し、何か書き物を読んで噂し合うシーンを何度か見たことがあるでしょう。これが「高札場」といわれるもので、江戸幕府は、幕府の方針や掟、ご法度などいろいろな決まりの周知を図るために、町の主要な個所に高札場を設けた。

 

 この周知方法は既に奈良時代にみられていたが、江戸幕府がこれを多用した。今回の企画展示は、江戸と明治の高札をとり上げたが、江戸の高札は現存する数少なく、明治に新政府が発した「五傍の掲示」を中心に展示しました。

そのほか、奉行名で発せられた強盗などへの用心等の高札、面白いものでは誰が建てたかわからない「柿をとるな!」など高札とは言えない江戸時代の立て札などを展示しています。

 なお、この企画展示には中山道美江寺宿の故玩館の多大な協力を得て開催いたしました。

20131011110423.pdf (クリックするとPDFで画像が開きます。)

 

 

20131011105917_00001.jpg