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太田宿と太田の歴史

中山道 三大難所

更新日:2008年02月14日

木曽のかけはし
太田の渡し
碓氷峠がなくばよい

 

 江戸時代、中山道は東海道と比べ、陸路が多いため渡場で止められることが少なく、安定して通ることができたので、比較的多くの旅人が往来しました。しか し、東海道と比べて伊勢湾の渡しや大井川のような大河の渡しなど危険な所が少ないとはいえ、険しい坂や激流の河川が旅人を阻みました。
 また、徳川家は天皇家との外戚関係を継続させるために、皇族や公家の娘を将軍の夫人にしてきました。これらの姫君たちはいずれも中山道を通って江戸に向かいました。姫君の通行が多くあったため、中山道は姫街道とも呼ばれています。 
 「太田の渡し」は中山道の三代難所の一つとして知られていました。古くは『吾妻鏡』に記されている「大井戸の渡し」が「太田の渡し」だと考えられています。十三世紀以前に存在しており、交通の要衝としての太田の歴史は古くからありました。

 

太田の渡し 

慶長十五年(一六一〇)には、大久保長安から太田の渡しの船頭に対して屋敷を安堵する書状が出されています。寛永十二年(一六三五)に参勤交代が制度化さ れると交通量が多くなり、同十七年(一六四〇)に近隣の五ヶ村に助郷船役が課せられました。渡場は、太田宿の発展や洪水などによる河川状況の変化などで、 宿場の近くから次第に上流へと何度も移転し、造り直されました。  昭和二年(一九二七)、太田橋の完成にともない渡船は廃止されました。今は太田橋下に残る渡場跡と石畳により往時を偲ぶことができます。

 

木曾のかけはし

明治の文豪島崎藤村の『夜明け前』の冒頭にある「木曽路はすべて山の中である」は、中山道の様子をよく伝えています。
「木曽のかけはし」は中山道の難所とされ、木曽川の切り立った崖などに沿って、木材で棚のように張り出して造った道です。木曽川に渡した橋のことではありません。その後、尾張藩によって改修工事が行われ、木橋をかける石積みがつくられた場所もあります。

 

碓氷峠

中山道は、鳥居峠(一、一九七m)、碓氷峠(一、一九〇m)・和田峠(一、五三一m)と急峻な峠が幾度となく続き、峠越えの難所として旅人を苦しめました。
 「碓氷峠」は、坂本宿と軽井沢宿の境にある峠で、『日本書紀』に日本武尊が越えた碓日坂として登場します。『万葉集』には防人の歌が詠まれています。昌泰 二年(八九九)には群盗を取り締まるために碓氷坂に関所が設置されました。元和年間に幕府により碓氷関所が設けられました。

 
 

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