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太田宿と太田の歴史

中山道太田宿

更新日:2008年02月29日

美濃国は、開幕当時大久保長安が奉行として治めていましたが、長安没後は尾張藩や幕府・旗本などが支配するようになりました。このうち落合宿から鵜沼宿までは十七世紀の初め頃に尾張藩の支配となりました。太田宿は中山道の宿駅としての機能だけでなく、後に太田代官所が設置されるなど木曽川筋の軍事・政治・経済の重要な拠点として位置づけられたのです。

 
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皇女 和宮

更新日:2008年02月27日

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、弘化三年(1846年)に仁孝(にんこう)天皇の第八皇女として生まれた。十五人兄弟の末っ子で、成人したのは兄の孝明(こうめい)天皇(明治天皇の父)と姉の敏宮(ときのみや)の三人だけです。
 6歳の時、11歳年上の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)と婚約したが、和宮15歳の時、幕府から朝廷に対して「十四代将軍徳川家茂へ降嫁を請う」(公武合体)と執拗な申し出があり、婚約を解消し承諾するに至った。和宮16歳の時、文久元年(1861年)10月20日に中山道を江戸に下った。


写真は例年大好評!「おん祭みのかも」大名行列の1シーン

中山道にしたのは、いくつかの説がありますが、この縁組の反対派が、和宮奪回を企てていることから、より危険性の少ない中山道にされた。御輿入れの行列(50km)は、世界でも比類の無いことで、総費用は今のお金にして約150億円かかったといわれています。

 
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往来手形

更新日:2008年02月23日

江戸時代に庶民が旅をするときは身分証明書と通行許可証を兼ねた往来手形を必ず携行しました。これは往来一札ともいいます。旅立ちに先がけて、村役人か檀那寺から発行してもらいます。
書式は手形所持者の住所と名前、宗旨名、旅の目的が書かれています。泊まる場所がなく途方に暮れている場合は宿を提供してもらい、病死した場合はその地域の作法によって取り扱いを決めてもらうように依頼してあります。

 
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太田宿ゆかりの人々

更新日:2008年02月20日

皇女和宮こうじょかずのみや

弘化三年(一八四六)〜明治十年(一八七七)
文久元年(一八六一)仁孝天皇の皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に御輿入の際、前代未聞の大行列が行われました。同年十月、太田宿本陣に宿泊しました。行列は総勢凡そ二万人、前後四日間にわたって続き、一般の旅人は七日間にわたって通行が禁止されました。沿道には砂が引き詰められ、竹矢来が組まれ、見苦しい家は修理されました。太田宿本陣福田家の正門もこのときに新築されたと伝えられています。

 
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船頭屋敷

更新日:2008年02月15日

江戸時代、木曽川をはさんで対岸の交通は、渡船に頼っていました。太田宿には、慶長十五年(一六一〇)に大久保長安から出された「太田渡船頭屋敷安堵状」により船頭八人の屋敷が保証されていました。渡船に関わる人々が住んでいたことがわかります。

 
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今に生きる船頭

更新日:2008年02月15日

 明治時代以降、船頭や筏乗などの川で生活していた人々は、ダムの相次ぐ建設や鉄道の整備、昭和二年(一九二七)の太田橋の完成などにより、その姿を消していきました。

 
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『道中膝栗毛』と太田の渡し

更新日:2008年02月15日

 江戸時代の代表的な十返舎一九の滑稽本である『道中膝栗毛』【享和二年(一八〇二)〜文政五年(一八二二)】は、江戸神田八丁堀の弥次郎兵衛と喜多八が東海道・木曽街道などで、旅での失敗や滑稽、諸国の文化について洒落気を交えながら旅をする物語です。

 
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鵜飼船と渡船

更新日:2008年02月15日

 「太田の渡し」で使用される船として、渡船四艘、尾張藩から貸し与えられた鵜飼船五艘、御馳走船一艘が配置され、船頭十六人に対し給米一石が与えられました。

 
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中山道 三大難所

更新日:2008年02月14日

木曽のかけはし
太田の渡し
碓氷峠がなくばよい

 

 
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中山道六十九次

更新日:2008年02月08日

慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いによって覇権を確立した徳川家康は、江戸を中心とする五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)を整備しました。中山道は、慶長七年(一六〇二)に伝馬を出す宿場に朱印状が出されており、この頃成立したといえます。

 
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